今月の標語の履歴


トップにある「今月の標語の履歴」のストックです。


「誰かが教えてくれさえすれば…」 2006/03

電気用品安全法がにわかに注目されている。

この4月で、一部製品の販売猶予期間が切れるため、新しいマークの無い電気製品は販売が禁止されるためだ。これには中古も含まれる事から多方面での影響が予想されるからだ。

当店などはまさに中古電気製品を扱う当事者であるにもかかわらず、この法律の影響は2006年初頭まで知らずにいた。全く情けない事であるし、事業者としての責任感の欠如を責められれば伏してお詫びする他無い。

この法律の詳細や是非はここでは論じない。それよりも強く印象に残った点について述べたい。この法律とその影響を初めて知った時に、なぜ世間には業界団体というものが存在するのか、しみじみ理解出来た、と言う事である。

この法律の対象外であるパソコンと自動車を除いて中古業界にはまともな業界団体は無い。横の繋がりも薄い。4月になったら店を畳まざるを得ない事を、つい今しがた知って呆然としている店主すらいるだろう。

日本では新しく創られた法律は官報に掲載して国民に知らしめる事になっている。さらに法律の監督省庁は、社会的な混乱を避けるため、大きな影響が予想される業界などには別途周知をはかる。この法律は製造業と販売業に極めて影響が強いため、各々業界団体等を通じて説明会を行っている。中古屋には説明がなかった。当然である。説明しようにも相手、つまり業界団体が無いのだから。そして、説明を受けた製造業者も販売業者も、中古屋には教えてくれなかった。

試験時間が変更になったため、教授は掲示を行い、クラスの電話連絡網で伝えさせた。しかし、家に留守電がなかったばかりに、試験を受けられず単位を落とした大学生の心中やかくあらん。

このサイトは、個人の緩やかな企業と、中古品売買を通じて消費者の市場参加を促す目的を持っている。このためには情報の共有が絶対的に重要である事を、今回の件では強く認識し直した。天災は不測の事態であるけれど、法律はいくらでも対応する事ができるはずである。きちんとそのための仕組みを持ってさえいれば。

「せどり」 2005/11

すっかりせどりがブームだ。

的確な古書相場感をもったプロの特殊な商売を、ネット書店のアマゾンのマーケットプレイス、新古書店のブックオフそして携帯ブラウザがせどりを誰でもできる小遣い稼ぎに変えた。

特にここ1年の間に、テレビ・週刊誌で取り上げられた事もあり、せどりを行う人が爆発的に増えた。その理由は誰でも簡単にできるからだ。

本に対する知識は何も要らない。面倒な購入者とのやりとりはアマゾンがやってくれる。あとは本を封筒に入れて発送さえすればいい。105円の本が千円で売れるなら小遣いになるし、三千円ならちょっと目の色が変わるだろう。

はじめは楽園だった。高額本がどんどん見つかった。しかしブックオフで本を探す人が増えるにつれうまみのある本を発見する機会は減っていった。またマーケットプレイスの出品が増えた結果、我先に売ろうとする出品者の値下げ合戦で1円本が続出した。

人知れず眠る高額本を抜き取り小さな在庫で高い粗利を誇ったせどりは、去年までは頭脳労働と言える状態だった。現在では完全に肉体労働である。ブックオフの105円棚は日に何度も携帯での全冊検査を受けているし、マーケットプレイスの価格は数分おきに最安値の自動更新ソフトが処理している。

何故楽園は消えたのか?

報酬は提供役務の価値に比例する。実社会の労働者は労働基準法により最低賃金額を保証されているが、せどりはそうではない。誰でもできる仕事にはそれなりの報酬しかない、という市場の調整原理がまともに働いた結果、せどりの楽園は消えたのだ。

誰にでもできる仕事で儲け続ける事などできない。この当たり前の命題をIT社会の寵児はすさまじいスピードで証明したのだ。

上流のブックオフと下流のアマゾンに挟まれて、価値のない中間流通が存在できる余地はない。せどりの崩壊は近年の流通革命・価格破壊の潮流が示した構図そのままである。

では、我々副業Webリサイクルショップはどうなのか?

副業Webリサイクルショップは中間流通ではない。お客から買い取る事によって、我々自身が商品を生み出し、オークションなど販売所の提供を受ける事はあっても、それを直接お客に販売している。つまり産地直送。我々は仕入れ価格も販売価格も握っているのである。この点は商売を行う上で非常な強みだと言えよう。

古物買取はそれ自体が価値を生み出す仕事である。誰でも可能だが、誰にでも容易に実行できる仕事ではない。ゆえにその報酬が消え去る事はないのだ。

「不測の事態」 2005/07

どんなに気を付けていても、不測の事態が起こることもある。ちょっと古いが想定の範囲外だった訳だ。

今回、急遽入院手術をする羽目になってしまった。即日入院という訳ではないが、できるだけ早めに手術をした方が良いと医者に言われたのだ。

その時、本業の仕事の調整をするのが一番大変だった。どこまでの仕事を受け、納品し、いつから休業にするか。そのことを取引先にどう説明し納得してもらうか。請求や回収はどうするか。

しかし、この副業については、少なくとも対外的な準備はまったく必要なかった。ある日突然ショップを閉めても買取を中止しても、別に誰に文句を言われる訳でもないからだ。簡単だった。私には妻がいたので、入院中に簡単な処理ができるよう、発送などをちょっと練習しただけだ。

不測の事態はいつ起こるか分からない。そうしたときに、本業に対応するために、さっさと投げ捨てられるものでないと、副業には向かないのだ。

「とにかく買取」 2005/03

中古屋商売は、買取に尽きる。

利益も売上も店の規模も、すべてどれだけの商品を集められるかに掛かっている。中古屋は、販売1に買取9の力配分、と云われる所以である。

ブランド服や子供服などに造詣が深く手持ちの品が多い人が、気まぐれにリサイクルショップを始める例は多い。手持ちの良品を売って割合大きな利益をかんたんに出せる。しかし、売る品が無くなって閉店するケースが後を絶たないのだ。

このサイトの記録でも分かるように、副業レベルの売上は、月にほんの数件の買取があれば、十分だ。上質の買取依頼が1件あれば、それだけで簡単に10万の利益が出る事も珍しい事ではない。

また逆に箸にも棒にも掛からない品の場合もある。割合としては、こちらの方が大きいだろう。副業リサイクルショップでは、普通雑貨を扱うが、そうでなければなおさらだ。例えば古本屋では商売になる本棚を1つ作り上げるのに、その十倍の古本の買取が必要だと言われる。処分するしかない売れない本が多いためだ。

中古屋商売にとっては、優良な買取客をいかに集めてくるのか、が生死を分ける。それは副業であっても変わらない。

「Simple is the best」 2004/12

シンプルに勝る物はない。

IT技術・インターネット・商売。いずれも複雑にしようと思えば、どれだけでも複雑にできる。どんどん最新の理論や技術を(形でだけでも)導入することも可能だ。実際、ネットショップオーナーなどには、アフェリエイトだブログだと、トレンドの技術をいち早く導入すること、時代に取り残されない様にとしゃにむに流行を食べ散らかしている人も多い。

しかし、どんな技術を駆使しても、基本ができていなければ砂上の楼閣にすぎない。

商売の基本は、もっとシンプルだ。

物を売って、代価を貰う。それ以外の所にこだわっても、それは本質ではない。

絶対に利益は無からは生まれない以上、どれほど技術や理論でこねくり回した複雑怪奇な儲け話でも、お金の出所さえ見極めれば、それがどれだけ怪しげな与太話かはすぐに分かる。

中古の買取で安く仕入れた商品を売る。これ以上分解できないほどシンプルな商売は、どんな状況でも強いものである。

「売って、あ・げ・る」 2004/11

お客さまは神様ではない。当たり前だろう。売り手も買い手も、ただの人間に過ぎないのは明らかだ。そんなに卑屈すぎる感謝を持たずとも良いではないか。それともお客の同情と憐れみにでも頼らなければ成り立たない情けない商売を行っているとでも言うのだろうか。

商取引はもっとドライであるべきだ。両者に得があるから、わざわざ取引をするのだ。両者が持つ異なる価値をトレードする事により、全体の価値の総和が増えるのだ。

逆に言えば、価値の上がらないトレードは、むしろ社会の害悪である。高度成長以後の商売人の多くは、買い手を「消費者」という名の顔のない神に祭り上げ、無価値トレードを包み隠して押しつけてきた。大量消費時代の幕開けである。

こうした悪意のある商取引の基準が蔓延しているからといって、なにもわざわざ我々の副業をそれに沿わせることはない。

まっとうな商売をしよう。

基本は、売り手も買い手も平等、という事実だ。あまりに卑屈に買い手にこびる態度は、逆に客を馬鹿にしている。消費者というレッテルを貼り付け、持ち上げた振りをして騙した上に、利益をむさぼろうという態度には虫酸がはしる。

「良い物なら買いたい」というのが素直な客の声なのだ。「これだけお金を出すなら売ってやろう」という素直な態度がもっとも誠実だ。異常な値下げもサービスも必要ない。人に対する当たり前の誠意と気遣いがあれば、他に何もいらないのだ。「買ってください」ではない。「売ってあげる」。これが本当のまっとう商売と言えよう。

「誠意と心」 2004/10

副業だろうが本業だろうが、商売を行う以上、商道徳を守り、誠意を持ってお客に接するのは基本だ。たとえそれが、相手の顔も見えないネット販売でも基本は揺るがない。

ところで、誠意とは何だろう?

誠意、まごころ、きもち、愛。こうした心の持ち方の重要性が声高に叫ばれるのに比べ、そうした精神の動きを実務的に測り、評価し、そして実践する方法についての誤認識が、日本人には多く広まっているように見受けられる。

日本では精神のあり方を強調し、こころ・気持ちのあり方を重視する風潮が根強い。そこから逆に、「気持ち」さえあれば良いという逆転した誤認識が生まれるのではないか。

結論から述べよう。内心の気持ちなどには価値はない。「気持ち」はそれが発揮された結果である現実の実績だけがすべてなのである。いくら強い想いを抱いていようと、目に見える実績がなければ、それには全く何の価値もないのだ。

人間が、物理的な信号でコミュニケーションを行う動物である以上、これは当たり前のことである。

また、心は言葉でもない。いくら「愛している」とささやいても、ささやく本人が愛していると思いこんでいても、相手に対する物理的な成果が無ければ、愛があると思うのは幻想にすぎず、客観的にはそこに愛など無い。家族を踏みにじりながら「でも俺は家族を愛してるんだ」と酒場でくだを巻く男に、家族への愛などあるはずも無い。

これは、商売でも同様である。お客のことを考える、などという時、そこにはお客の具体的な利益が想定されていなければ意味がない。言葉の飾りも、虚飾もいらない。ただ実益だけを捧げよう。

それが商売における誠意なのである。

「モノとお金」 2004/09

働かないで、楽して儲けようと言う風潮が広がっている。

たとえば、月50万の不労所得を作り出す仕組みを考えてリタイア生活を送ろう、と啓蒙している人がいる。そして、この人の書いた本やメールマガジンは爆発的な人気を博しているのである。しかし、この人の語っている内容を本当に理解している人は、一体どれだけいるのだろう、と疑問に思わざるを得ない。

「お金持ちになりたい」と願う人は多いが、「お金持ち」とは、一体何なのか、心底考えた人は、どれだけいるのだろうか。

人間はその知能で便利な貨幣経済を発展させたが、そのあまりの便利さ故に、逆に、実態のない貨幣経済それ自身の中に、虚像としての価値を見いだし、追い求めてしまう人が現れている。

お金それ自身には価値はない。価値の実態は、お金を流通させる社会にこそあるのだ。きらびやかなマネーの魔法に惑わされると、つい、そのことを忘れがちになる。

大多数の人が不労所得で50万円の月収を得るようになった社会では、当然のごとく、50万円の月収では、最低限の暮らししかできないだろう。金持ちとは、持っている金額の多さではなく、不均衡を維持できる能力のことなのだ。マネーの虚構に惑わされた人は、他人を押しのけ、蹴散らし、この一握りの人種になろうとあがく。

こうした不均衡は、逆さ振り子のような不安定さを内在している。つねにバランスを保ち続けなければ、早晩倒れてしまうだろう。こうした虚構との戦いに血道を上げることが豊かな人生であるとは思いがたい。

お金持ちになりたい理由が、豊かに生きたいためだとするなら、豊かに生きるためには、お金持ちになるしか方法がないわけではない。虚像ではなく、価値の実態を追い求めればよいのだ。人が人として生きていく時に実際に必要なのは、お金ではない。モノだ。災害時などの極限状態では、それがよく分かる。モノをベースにした商売は、確かに派手さはない。しかし、確実だ。モノは露と消えたりはしないからである。モノを通じて豊かな社会の価値流通が実現すれば、それは誰しもにとって豊かさのベースアップとなり、すなわちあなたも豊かに生きられるようになるということなのだ。

副業とは言え、不要品をゴミから救うリユースを推進することは、そうした社会への取り組みと言えるだろう

「商売のアマチュアリズム」 2004/08

20世紀はプロフェッショナルが広く確立した時代だった。複雑な社会システムの中で特異化した技能に習熟した小数の集団が、大衆にサービスを提供するという形態が、社会において急速に浸透したのである。

社会のプロフェッショナル化は、提供するサービスの質を上げ、対価を下げ、より「効率的」な社会活動を可能にした。実際プロフェッショナル化する社会には輝ける未来が待っているかに思えた。少なくとも70年代までは。

21世紀に入るかなり前から、漠然とした不安が社会に蔓延しているのは単なる不況や社会保障の構造など表面的な問題によるものではない。それはプロフェッショナル化へ驀進する社会形態そのものに対する不安なのだ。

なぜ不安があるのだろう。プロフェッショナル化の利点をあげるのは容易だが、不利益もある。プロフェッショナルはその特異化した1つ2つの技能をのぞいて、社会活動上全く無力にならざるを得ないのだ。社会のあらゆる側面がプロフェッショナルによって担われるにつれ、「その他の大衆」は、社会のあらゆる側面からますます隔離されていく。

いわゆるサラリーマンという曰く言い難い形態を筆頭として、現代人は否応なくプロフェッショナル化の波に洗われている。企業に勤める「経理のプロフェッショナル」は、それ以外のすべて社会生活上の技能を習熟させる機会を得にくいのだ。経理だけやっていて生きていけるのは、そのほかの一切合切を他のプロフェッショナルがやってくれるからである。

家を建て、衣服や家財道具を作り、田畑を耕し、食事をする。そうしたよりプリミティブな生物としての活動から離れれば離れるほど、「生きていく力」が失われる。それが不安につながるのだ。

プロフェッショナル化した社会は会計年度単位での経済効率は莫大に稼げるかもしれないが、長い目で見れば破綻は必然だ。人は生きているという確かな実感なしには生きていけるものではないからである。

プロフェッショナルは、必要だ。あらゆるプロフェッショナルを撲滅するわけにはいかない。しかし、あらゆることをプロフェッショナルに任せなくとも良いのだ。我々にも、アマチュアとしてできることはいくらでもある。

経済活動の舵取りを一部のプロフェッショナルに奪われ大量消費社会における「消費者」という恥ずべきレッテルを貼られている我々は、まず、ここから離脱することから始めよう。現に社会のあちらこちらでそうした離脱現象は始まっているのだ。

大量消費をやめよう。そして、経済活動を、我々自身の手に取り戻そう。

原始の社会がそうだったように、多技能を持ち、さまざまなサービスを互いに交換する、という広い意味での「商売」は、生活するすべての人に必要な行為だ。

アマチュアで結構。すべての人がアマチュア商売人となり、互いに有機的に結びつく、そんな「原始的」な社会こそ、情報革命がもたらす真の「先進的」社会といえよう。その扉はもう、そこに見えているのだ。

「季節と商品」 2004/07

商品には売れ行きが季節によって変動するものもあれば、そうでないものもあるのはご存じだろう。たとえば我々が扱う中でもっとも影響を受けやすいものは、衣類・空調機器である。

誰でも容易に想像がつくであろうが、たとえば冬場に扇風機を高値で買う人はいない。どうしてもシーズンオフに売り切りたければ、よほど売値を下げてたたき売らねば難しいだろう。

しかし、季節商品の入荷が最も多いのは、これも容易に想像できると思うが、シーズンオフになってからなのである。冬物衣料は春先の衣替えでどっと出てくるのである。

季節商品は、売れる季節まで在庫しておくしか方法がない。しかし副業の我々にはそんな在庫スペースはない。よって作戦は2つ。1)季節はずれの季節商品は買取を断る。2)季節外と説明して買いたたく。

冬場に高値で売れることが確実でかさばらないものなら問題ない。粒をそろえて買い取ろう。春先の普段着の古着など、(よほど自信がある人をのぞいて)ただで引き取りでもいいぐらいだろう。

そして、買い取った季節商品は、季節外でも売りに出そう。ただストックしておいても売れる可能性は0である。売りに出せば賑わいにもなる。ただし季節価格として売値を下げすぎないようにするのがポイントだ。

「金の卵を産むガチョウ」 2004/06

金の卵を産むガチョウをご存じだろうか。無限に富をもたらしてくれる、そんな都合の良い動物はもちろん実在しない。

しかし、考えてみると、ビジネスの本質は、この「無から有を生み出す」事に他ならないと気づく。最終的に無視出来る量のコストを用いて、状態Aを状態Bに変換する。もしこの状態の差に価値を見いだす人が存在するなら、それを提供することにより、その人はその価値に見合う代価をあなたに払ってくれるだろう。

キーワードをまとめてみよう。「無視出来るコスト」「変換する」「価値を見いだす人」「提供する」これらはどれも突き詰める価値のあるキーワードであり、それぞれがビジネスというものの本質の一角を表していると言えよう。

抽象的な話が続いたので、我々の副業に戻って平たく話そう。

「不要品をただ同然で引き取ってきて、それが欲しい人に高く売りつける」

これが我々の金の卵を産むガチョウの正体である。こうして文字にしてみると単純なことだ。そう、非常に、時には馬鹿にされるほど単純明快だ。そんなことは誰でも分かる、と言われるだろう。

しかし、注意しないと足元をすくわれる。真理はいつでも単純なものだ。そこからどれだけの知識を引き出せるかは、個人の力量にかかっている。

言葉をスルメのように噛み締めてみよう。「不要品」とは何なのか?「ただ同然」とはいくらなのか?「引き取る」為の方法は?「欲しい人」はどこにいるのか?「高く」いくらで売れるのか?

これらの問いに完全な答えはないし、問いが尽きることもない。どんな商売の達人でも、いつでも暗中模索なのだ。誰でも理解出来る真理は、真理であるが故に誰もそこに到達することはできない。我々にできるのは、たとえ一歩でもそこへ近づくために歩くことだけである。

「優先順位」 2004/05

副業とは、単に仕事を増やすことであってはならない。副業とは、あくまで「副」の生業である。本業が忙しい時にしゃしゃり出てくるようなものが副業であってはダメだ。本業が忙しい時大変な時、いつでもほっぽり出せるもの、「あ、すいません。今ちょっとやってないんですわ」とつれなく断れるもの、そうでなくては副業ではない。実際、私はここ2ヶ月ほど、このサイトとリサイクルショップをほとんど放り出している。本業が忙しいのに、断りたいのに引き受けざるを得ない。それでは、単に本業を2つ持っただけである。

繰り返すが、副業はいつでも止められるような手軽さが無ければいけない。さて、これは仕事に対して無責任な態度だろうか?実はそうではない。だれしも体は1つしか無い以上、本業に責任を持つためには必ず避けては通れない事なのだ。逆にそれは、本業の責任を貫くために、本当に責任のある態度なのである。

勘違いをしないで欲しいのだが、副業なら約束を破っても他人に迷惑を掛けても許される、と言っているのではない。副業か本業かなど、取り引き相手にはわかろう筈もないし関係ないことだ。当然である。副業であろうと約束は守らなければならないし、取り引きで迷惑を掛けるようでは、いずれ社会的に抹殺されるしかない。この点は当然、本業副業関係ない常識である。

つまり副業では、できるだけ「約束しない」「保証しない」「こちらの都合で進める」「ぎりぎりまで手を抜ける」形式を作り上げればよいのだ。

どうやっても、しない約束は破れない。あらかじめこちらの弱点を晒しておくのである。背伸びをして着飾る必要はない。「こうしかできません」とすべて伝えた上で、それでも取り引きしてくれる人だけを相手にする、それが放り出せる副業のコツである。

たしかに、そうしたやり方では、着飾るやり方よりも客も売上も減るだろう。でも、それがどうしたというのだ?我々には本業があるではないか!本業の足を引っ張るぐらいなら、副業などやらない方がましである。

優先順位を間違えた安易な副業展開は、本業と副業の要求の板挟みにあって、いとも容易にどろどろの修羅場と化しやすいものだ

「手抜き」 2004/04

手抜き、と聞いて良い顔をする人はあまりいない。一般には手抜きは忌むべきもの恥ずべきもの、という共通認識があるからだろう。

しかし、本当にそうだろうか?私は、手抜きを見直すことも必要だと思う。本来、手抜きは不真面目とはちがう。たとえば料理なでは、手間暇を掛ける、という言葉があるが、それなら手間暇を掛けないのが、「手抜き」なのである。効率的に安く素早くそこそこきれいに仕上げるファストフードの料理。それが手抜きだ。

そう考えると、昨今のビジネスはいかに手を抜けるか、が成功の鍵となっているのではないか。なぜなら、現在もっとも高価な資源は人件費だからだ。そしてそれは副業ビジネスでも変わらない。たとえ何時間働こうと、無くて元々、100円でも儲かれば良いなどと安易に考えている副業ワーカーは、労働単価の意識が低いと言わざるを得ない。

インターネットでの副業リサイクルショップは、どんどん手抜きをしていこう。それはサービスの質を落とす事ではない。質を落とさず手を抜くのだ。要らない作業・無駄な作業をばっさり切り落とそう。しかし脳外科の手術のように、決して重要な箇所を傷つけたり切ったりしてはいけない。腫瘍だけを取り除くのである。これらの見極めと実行には、十分な考察と集中力が必要だ。手抜きは決して楽ではない。

とことんまで突き詰めて、重要な本質だけを残そう。繰り返すが、作業時間にセンシティブな副業においては、「何をするか」よりも、「何をしないか」をちゃんと考えることの方が何倍も重要なのである。

「効率第一」 2004/03

人間、誰しも分かりやすい指標に流されやすいものである。商売において一番分かりやすいのは、「売上」。オークションや副業など、副業実績を公開しているサイトは多数あるが、今月の売上報告で終わっているのが大多数なのは、そうした理由があるのでしょう。もっとつっこんだ報告をしているサイトでも、「利益は○○円。でも結構働いたので、普通にバイトするよりは効率がわるいかもしれません」程度。それでは全く何も分からないのと同じなのです。

売上から仕入を引いたものが粗利益。粗利益から経費を引いたものが営業利益。この営業利益を、それを獲得するために費やした作業内容で評価して初めて、その商売の効率が分かるのです。

商売においてもっとも大事なもの、それは売上ではなく、利益です。利益はきちんと計算しないと分かりません。「わーい、今月は10万円も副業でもうかったよー」といいながら、10万円は売上で、本当の営業利益は3万円、しかも、実労働時間は100時間ということも一般には多いのです。これでは時給換算300円。ファストフードでのバイトの方がまだ儲かります。

極端な話、月に2時間だけ働いて利益を5千円稼ぐのと、月200時間働いて10万円稼ぐのでは、全く仕事の質が違うわけです。

どちらがよい、と言う話ではありません。どうしても10万円が必要な人は、200時間働けばよいし、逆に時間がない人は、月に5千円で我慢するしかないのです。

インターネットでの副業リサイクルショップは、効率主義です。月2時間で5千円なら万々歳なのです。時は金なり。時間があれば本業に当てましょう。本業を持つ人が行う副業では、薄利多売は厳禁なのです。効率よく利益が出れば、売上規模にはこだわってはけません。

「買取チェーン」 2004/02

ままごとのような規模の副業リサイクルショップ。わが1万世帯の買取商圏に対して、配布するチラシは、年間たったの1万枚弱。にもかかわらず、毎月とぎれることなくやってくる買取依頼。この買取依頼のチェーンが無ければ、副業リサイクルショップは成り立ちません。そう、商品さえあれば販売なんて誰でもできるのです。いかに買取を続けられるか、それが副業に限らず、リサイクルショップ・古物商の生死を決めるのです。

新聞の折り込み広告のような力業は、副業では実行しづらい方法です。依頼が少なければコストがかさみ、依頼が来すぎれば、在庫があふれます。自分でデザインした単色チラシをちまちまポスティングし、月数件の買取を行う程度が理想でしょう。副業では、週1回以上の買取が入ると、時間的にも空間的にも、本業に対して結構な圧迫感を感じるのです。

細々とした買取チェーンを作り出すには、サービスあるのみです。1件1件の買取依頼を大事にして、サービスに努めましょう。サービスは人を呼びます。リピーターもしくは紹介となって帰ってくるのです。これぞ極意。今月はとうとう、遂に買取依頼が入らないか?という月末に、電話のベルを鳴らすのはこうした過去の努力なのです。

「低空飛行」 2004/01

決して高い収益を上げるわけでも無いが、かといって0になるわけでもなく、グライダーが低空を滑空するように、細々と数万の利益が上がること。

たとえどれだけ手を抜こうと(12月のように月あたり二十数時間など)、売上は、作業時間が減ったほどには急に落ちない。この副業は、継続することにより、売上に対して一種のダムのような効果があらわれるのである。

本業を持つ人間にとっては、当然、本業が第一である。本業が忙しければ、副業などに構っている暇はない。そんなほったらかしの扱いを受けた時でも墜落することなく、地道に低空飛行してくれるこの副業は、かなりありがたい存在と言えよう。もし本業が暇になり、再度、大空へ昇ってゆきたくなったのなら、上昇気流を得て高く舞い上がればよいのである。それでまたしばらくは滑空できるであろう。上昇気流とはつまり、新たな買取チラシを配布することである。

 


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